山本育夫詩集『ボイスの印象』
山本育夫著

山本育夫詩集『ボイスの印象』栞1
山本育夫小論 吉本隆明 【全文掲載 】
ひと口に山本育夫さんの詩の発見は、沈黙と声とのあいだに位 置する言葉の階段の発見だとおもう。
もっと別のいい方をすれば
沈黙の言葉(無言)と、
音声ある言葉とのあいだには、
言葉の音階ともいうべきものがあり、
それぞれの音階には、固有の表現通則をもった言葉の配置が、成立つことを見つけだしたことだ。
ひとびとは沈黙か声か、
言葉はその何れかの配置しかとれないと思っている。だがそうではないのだ。
この発見が山本育夫さんの詩の運命との遭遇に当っていた。
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山本育夫さんの詩が、とうとう一流の表現を獲得したなと感じたのは「博物誌」の何号だっただろうか。たしか「憎悪の、行き場」の詩編を誌上で読んだときであった。印象批評でいえば、一面 では動かし難い緊密な言葉の配置からくる揺るぎなさの感じであり、ほかの一面 では甘美さみたいなものが、変貌して無くなったことからくる侘しさみたいなものだった。あるいは言葉の運命が決定してゆく迫力であるとともに、子供たちが無邪気に近よれないような言葉の雰囲気の実現でもあった。でもそれは一人の詩人がじぶんの言葉の運命に出遭う仕方のひとつであり、他者が口ばしを入れる余地がないものだとも云える。
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山本育夫さんの決定した言葉の運命は何なのか。いく日か詩集の詩編をめくり返しては読み、また休んでは読みして、断続的に考えてみた。まだ全貌がつかめたとはいいきれないが、朧げに輪郭が浮かんでくるところまでたどりついた。 ひと口に山本育夫さんの詩の発見は、沈黙と声とのあいだに位置する言葉の階段の発見だとおもう。もっと別 のいい方をすれば沈黙の言葉(無言)と、音声ある言葉とのあいだには、言葉の音階ともいうべきものがあり、それぞれの音階には、固有の表現通 則をもった言葉の配置が、成立つことを見つけだしたことだ。ひとびとは沈黙か声か、言葉はその何れかの配置しかとれないと思っている。だがそうではないのだ。この発見が山本育夫さんの詩の運命との遭遇に当っていた。
不明な市から、騒騒と気配だけは伝わってく る。背後から、あるいは背後へ、位 置の点性 にぐるりの全くの無に、自在ではない、その、 位置の不安に、打たれ続けていることは間違 いない、だから「どこへ」、あるいは、「どこ から」という由来への執着は、激しく薄い、 けば立って、くる、精神の薄毛よ、そよぐ闇 の音よ、風の由来も、実は不明なのだ、宇宙 風、とそう繰り返す。不明な市から、こうし て、気配だけは充満しているが、市の只中に いれば、行き交う人は誰もいない、 (「意志する破片」より)
この引用箇所は、山本育夫さんが発見した声ある言葉(ふつうの発語)よりも低い、だが声ある言葉(ふつうの発語)の方に近いメタ位 置(メタ音階)のところで流通し、意味を荷い、また意味を難しくしている言葉の位 階を、詩集のなかではいちばんオーソドックスに明示している例のひとつだとおもう。ふつうの発語の位 相でいえば「どこへ」も「どこから」も、また街区の具象的な像も不明なのだ。また「背後から」も「背後へ」も位 置の不安としてしか存在できない。具体的な<意味>も構成しないし、抽象的な<意味>も構成しない。だが抜きさしならない言葉の配置の必然が、読むものに或るひとつの音階にある<概念>のメタファーを与える。これが山本育夫さんの発見が、いちばんまっとうに示された場所なのだ。だからどうして、とかそれからどうしてなどと問うても、問いの態をなさない。人々が沈黙の言葉(無言)と声ある言葉(ふつうの発語)の中間には、言葉などあり得ないとおもっているところで、山本育夫さんは、いや見つけようとすればその中間には、言葉の層がいくつもあることを見つけ出し、それを詩のパフォーマンスとしてやってみせた。そのことが、重要な山本育夫さんの詩なのだ。
もっと別 のいい方をしてもいい。人々が<書くこと>と<書かないこと>のあいだには何もないと決めてしまったところで、山本育夫さんはその中間にも、言葉の位 置がありうることを見つけだし、それを表現してみせたのだ。それが山本さんの詩と呼ばれるものだ。
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かくして山本育夫さんは、何を表現しようとし、どこへ行くつもりなのだろう?これこそは山本さんの詩にとって、最終の問いにちがいない。だが山本育夫さんはその問いの早急さを、ひとりでに慰撫してくれる。読者に与えてくれる山本さんの慰撫は、流れの<流露>であり、優しさを<曲線>としてみせることだと思われる。それこそが山本育夫さんの<発見としての詩>の、もうひとつ奥にある<言葉のパフォーマンスとしての詩>なのだといえよう。
早暁の錯乱、 引き際でしぶき始める、 あわ立ってしまったからには、 ふいごやそれらもろもろ、 いっせいになびいている、 たたきなめし、 たたき、 薄く、 どこまでもたたき薄く、 誰の姿勢に、 吹き荒れていくのか、だろう、 その表面、 なめされていく表の、 水分の、不透明なくぐもり、 粒状に、際限なく、 繰り返し繰り返し、 どこまでもあわあわと、 そして、 それら球体の中の、無数の監禁、 (「平面の、監禁」)
この詩は、言葉の位 相でいえば沈黙の言葉(無言)に近いところの位置の音階で行使された言葉だ。そのメタ<概念>は独り言とか独白とかいえるものに近い。この音階の発見もわたしの見聞の範囲では、山本育夫さんに独特のものだ。だがそれ以上に重要なのはこの詩が<流露>するメタ<概念>の表現だということのようにおもえる。読者はかくべつ具象的なイメージを与えられるわけでもないし、具体的な<意味>を汲みとるわけでもない。だがひとつの<流露>を、独白に近い言葉の位 相でうけとる。この<流露>が詩のパフォーマンスなのだといえよう。ある呼吸の充溢を言葉の配置に流し入れる。すると固いままで一種の<流露>がはじまるのだ。もうひとつの優しさの<曲線>はどう表現されているか、その例を 挙げよう。そうすると山本育夫さんの言葉の音階、メタ<概念>の存在の発見が、どれだけ多層性をもっているかが、よく理解される。
隣り合わせている、 指や腕、 それらの、つけね、 幾分、汗ばんでいるが、暗闇の中に、 ぼおお、と、きなくさく、 浮かび上がったり、沈んだりしているから、 隣り合わせている、太股や、それらのつけね、 が、濡れ膨らんでいくのが、 わからん、というふうに首を振っている、 のは、嘘に違いない、 ほとんど内側から湿潤していて、 匂いも、ある、 隣り合わせている、二つの、間に、 ゆっくりと、押し入っている、 そのぶんだけ、あふれだしてくるあふれを、 際限なく、牛や犬、ときには羊たちが、 ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃと音をたてて、 再び暗闇に溶け込んでいく言葉を、 またしても、み、きき、ながら、 沈んでいく (「あふれの、印象」)
突くと、その力の押しだけ、 へこむ、 ふくらむといったっていい、 向こう側では、 柔らかいが、粘性である、 その女は、女の形でゆっくりとそこへ、 身を沈めると、あらわにへこむ、 ふくらむといったっていいのだけれど、 男は、そのへこみやふくらみや時には、 まっすぐな小さなさけめやさけびにむかって、 更に小さな液体を張り巡らし、 深夜の星の光を吸う、その表面の張力の、 微妙なリズムをそばだてて、聴く、 聴き入ったり、している、 (「作業の、闇間」)
このふたつの詩の言葉が響かせている音に、すこし入念に聴き入るとする。声のある言葉(ふつうの発語)の位 相よりは、すこし低い、だが沈黙の言葉(無言)や独白の独り言よりは音声にちかい音階で言葉を使いながら、何やら言葉が傍らに横になっている裸身の女性に触れようとして、優しい<曲線>を描いているようにおもえてくる。それが優しいとも艶めかしいともみえないのは、言葉の位 相が声のある言葉(ふつうの発語)よりも低いメタ<概念>のところで使われているからだ。それでもピカソの抽象的な女の線が優しいように、これらの言葉の<曲線>は優しいのだとおもえる。いわば残酷という<概念>として優しいのだ。ほんらい具象的に描ける女体をぼかしてあいまいな輪郭にしているのではない。沈黙と声のあいだのメタ位 置にある言語の明晰な配置で描かれている女体なのだ
山本育夫さんの詩の言葉は掌に入った。そのことの渇いた意味の与えるものは、とても重要だとおもえる。誰もがその的確無比な言葉の配置を感得しながら、その源泉がどこからくるのか云い当てることができないほどだ。ここではそのひとつの解釈を果 しているにすぎない。
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実をいえば山本育夫さんの詩の世界は、もうすこしさきまで届いている。そういうよりも、通 常詩の言葉が織り出してくる世界を、完全に<反転>することができている。これはかれが内在的言語の位 階について、自由な発見で到達していることを、きれいに物語っている。
弾みでドアを押してしまった 中から気配 複数で向かってくる (不用心ですよ 咬んでいた口の中のものを 吐き捨ている ふちにくっついて 光っている (むきになってしまっているよね 二、三、いい争い 立ったままで男は 殴りつけてきた 背後の女の表情は薄暗くてつかめぬまま 男の甲が病んでいくのも はかっている 指輪で皮膚が裂けてきた (「傷害」)
肩越しにもんどり打った 自転車はずっと向こうで 賑やかに転げまわっている あごの下を 切った 竹川のゆるい顔つきから 霜が吹き出している なぜか そう思った (致命傷ではありませんよ (いつも ほどほど 心配ばかりさせるんだから 病院の窓の遠くを電車が走っていく 音はしばらくあとから 更に遠景の低い山並みの上を 稲妻が 走った みるみる暗くなってきた (唇を寄せ合う (「遠雷」)
これは一見すると何でもないエピソードの世界のようにみえる。だが何となくどこかが奇妙だなという感じに襲われる。そしてよくよく読んでゆくと、これはまったく<反転>された世界だということがわかる。
「弾みでドアを押してしまった 中から気配」とか、「土壁にぶつかり 肩越しにもんどり打った」とかで始まるこれらの詩は、ちょっとみると行為の動作や事象の、ややアブストラクトな描写 のようにみえるかもしれないが、じつは<反転>された陰画の世界の抽象度の高いメタ<概念>の言葉である。そして逆に「(不用心ですよ」とか「(むきになってしまってるよね」とか、「(致命傷ではありませんよ」とか「(唇を寄せ合う」とかいうわずかの言葉だけが、現実の世界の、音声のある発語であったり、唇を寄せ合う現実の行為を描いている言葉なのだ。これは気付いた途端に驚くべきパフォーマンスのように思われてくる。ちょうど通 常の詩人たちの詩の世界とは裏返しに、言葉の階段が使われている。
いわば、現実の世界をもとにした言葉は、一行か二行カッコに入れられて存在するだけで、ほとんど全部の言葉が<反転>している世界を基底にしているのだ。そのとき何となくどこかが奇妙だと感ぜられるこれらの、山本育夫さんのパフォーマンスの根拠と意味が納得されてくる。その達成がどれだけ遠くまで到達できているのかも。
山本育夫さんの声ある発語の世界の光線、そのきらめきが、世界の陰に這入っているのが寂しいといえばいえるが、いまここにまぎれもなく独創的な詩人が出現してしまったことを、その不可避性を誰も阻止することはできない。そういう揺るぎない力を湛えている。